行事の思いで
1.報恩講(ほんこさん)
 こどもの頃の大きな楽しみの一つに、秋のお寺の報恩講があった。お寺はもちろん下吉野の願慶寺である
 いまとちがい、収穫期の遅かった山村の農作業も、ようやく終わりに近づいた11月19日と20日、久しぶりの骨休みとあって、村中こぞってお詣りに行った。この日こども達は、なにがしかの小づかいを手にし、幼少のときは家族と一緒に、やや長じてくると友人達と喜び勇んで出かけたものであった。
 境内には、鶴来の“あっちゃば”とかいう“うどん屋”天川屋の焼きまんじゅう(どら焼)、それに玩具屋などが並んでいた。十銭で焼きまんじゅうを買い、玉ころがしというゲームを二回程して、あと百連発の煙硝とパチ(メンコ)を買うと金はなくなってしまった。せいぜい三十銭ぐらいであったろうか。しかしたとえ一銭たりども大切にし、物を買うのは、必要最小限の学用品ぐらいというつつましい生活の中で、この日だけは自分の考えで好きな買い物ができるという実に楽しい二日間であった。

 そしてこの報恩講が終わると、山々の紅葉も姿を消してしまい、冬はかけ足でやってくる。それに若者も、男は関西方面へ、女は金沢あたりへほとんどが出稼ぎにいくので、村は急に淋しくなってしまった。
吉田 政 著『加賀の吉野 わがふるさとの今昔より

平成15年11月19日の報恩講の様子(子どもも少なくなりました。)

吉野参り
      【意味】
        11月19、20日、下吉野の願慶寺で行われる報恩講のこと。
        この日は白山麓のあちこちから老若男女が集う。
『吉野谷村小百科事典』(1990年刊)より            



2.永代経や御忌
 もうひとつお寺の思い出に永代経がある。七月になると、連続して十日間お講が催される。昼は老人が主で、晩になると若者が多かった。
 若者にとって、お寺詣りにはちがいはないが、それよりも男女の出会い或いは交際の場としての色彩が濃厚であったように思う。いまと較べ、その頃はともかくも窮屈な時代であり、この永代経の期間中は、吉野に限らず近郊近在の青年たちは、農作業の疲れにもかかわらず、夜を待ちかねていたようにして足を運んだものである。

 ところで『尾口村史』に面白いことが載っている。永代経ではないが、春の蓮如上人忌の法会に、瀬戸村の人たちが願慶寺にお詣りにきて、女性たちが吉野村の若者に悪ふざけをされ、これに対し瀬戸村役人が吉野村肝煎に出した懸合状のことである。年代はわからないが、多分明治のはじめのこととみられる。また瀬戸村の女性たちは必ずしも娘とは書いてないけれども、内容からいって若者達の間におけるトラブルのように思われる。
 これをみると、藩政期から明治にかけての時代にも、瀬戸村のようなかなり遠いところから、大勢の人達が願慶寺へお詣りにきていたことがわかる。
吉田 政 著『加賀の吉野 わがふるさとの今昔より

 

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