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願慶寺の民話 2
吉野地区民話(古老の口碑より)
1、《手取川が出来た時の話》
 むかしむかし、泰澄大師ちゅう(という)えれー(偉い)かんさま(神様)が、白山をつくるまさった(お作りになられた)ときのことやわいね。
 白山をつくるました
(作り終わられた)かん様が山を降って(降りて)くるついでに 手取川をつくったがやと。
 はじめに牛首ん村
(牛首の村=今の白峰村白峰)まで来た かんさまな(神様は)、牛首んもん(牛首に住んでいる人)に聞いたがやと。
「ふけぇ(深い)ががいいがか、あせ(浅い)ががいいがか、どんながにほじってほしがや
(どんな風に川を掘ったらよいですか)
 すると、牛首んもんらは
(牛首の人たちは)
「そっりゃ、ふけえががいいわ。ふけいがにしてくれまいや」
  
(「それはできることならば深いのに越したことはない。深めに掘ってください」)
とたのんだ
(お願いした)がやと。ほしたら(そうしたら)かん様な(神様は)(クワ)でふけがに(深いのに)ほじりながら(掘りながら)、おりてきたがやと。(山を下ってきたのだそうな)

 ほして
(そうして)、きなむり(木滑)まで来た時に、いっぷくしょっとおもて(一休みしようと思って)、近くのうち(家)でやすもっとしたがやと(お休みになろうとしたのだそうです)
 ほしたら、きなむりのもんな
(木滑に住んでいた人は)こんじょわるて(了見が狭くて)、いっぷくさせなんだげと(家をかして休ませてはあげなかったんだそうだ)
 かんさまが「どんながに川ほじってほしがや」ちゅうて聞いたら、
(「どのように川を掘って欲しいのか」と言って聞いたのですが、)
「ほんなもんなどうでもいいわいね。勝手にするこっちゃ」
(「そのようなことは、どうでも良いことです。あなたの好きなようになさるがいいでしょう。」)
ちゅうたもんやさかい
(と、言ったものですから)、かんさまな(神様は)鍬を手に持ったまんまで、なーんもほじらんと、ただずーっと(クワを)ひきずってきたがやと。
(川を掘ることもなしに、ただ手にクワを持ったまま、ずっとクワを引きずって山を下ってきたのだそうだ)
 ほして、吉野まで来た時に、日ゃー暮れてしもたがやと。
(そうして、吉野の村まで来た時には、とっぷりと日が暮れてしまっていたそうだ。)

 かんさまな
(神様は)、くろてしごとんならんもんやさけぇに(暗くて仕事にならないものだから)、こんだ(今度は)、吉野んお寺さんに泊めてもるがにしたがやと。(吉野のお寺さんに泊めてもらうことにしたのだそうだ)
 ほしたら吉野のお寺さんナぁ、ほんことしっとって、せえいっぺいごっつぉしてくわいたがやと。
 
(そうしたら、吉野のお寺さんは、そのこと〔≒相手が神様だということ〕を知っていて、精一杯のご馳走をして、神様をもてなしたのだそうな)
 ほしたら
(そうしたら)かんさまな(神様は)喜んで、次の日に聞いたがやと。
「吉野のもんな、川 どんながにほじってほしいがや」と。
 (「吉野に住む人々は、川をどのように掘って欲しいのですか」と。)
 ほしたら、吉野のごんげさんな、
(そうしたら、吉野のお寺のご住職は、)
「ほんなら、ほじれるだけほじって、せーいっぺいふけぃがに、ほじってくらっせ」
 
(「それでしたら、これ以上掘ることができないという位に、できるだけ深く掘ってくださいませ」)
というたがやと。
(と、お願いしたのだそうだ)
 それを聞いたかんさまな、きんののお礼に、せーいっぺえ、ふけえがにほじってくれたがやと。
(昨日のお礼に、出来る限りに深く掘ってくださったんだそうです)
 ほんで、吉野んたにゃふけーげと。
 
(それで、吉野の谷は、手取川の流域の中でももっとも深い(深さ27m.)断崖絶壁が続くのだそうです)
 こんじょわるなきなむりんもんどむぁ、ほれからおおあみゃ(大雨が)ふるたんびに、こっぱいのめにおうたがやけんど、吉野のもんな、ふけーいがにほじってあるさかいに、どんらけ雨な降っても、なーんも困らんだげといね。
 
(了見の狭かった木滑村の人々は、それからというもの、大雨が降るたびに、川が浅いために水があふれて大変な目にあいました。しかし、吉野の村の人々は、川底が深い谷になっているので、どんなにたくさんの雨が降っても、一切困るということはなかったそうです。)







  【解説】

 
私の妹(千佳子)が、小学校の時の夏休みの宿題にまとめた『よしののむかしばなし』の中の一篇です。
 祖父母や近所の古老たちの話を集めて家族総出で作った力作でしたが、いつの間にかどこへしまったのか判らなくなってしまいました。
 そのうち、屋根裏ぐらいからでも出てこないかなと期待しているのですが、自分の寺に関わるこの一篇のみしかわからなくなりました。
 今では貴重な民話をたくさん採取してあっただけに非常に残念です。

よしのんたに(吉野の谷の意)
吉野ん谷(手取峡谷)
 
 それでも、昭和九年の大洪水の時には、橋の付近まで増水し、橋が流れるのではないかと、皆が心配したそうです。
   (結局は、言い伝えどおりに無事だったそうですが。)
 稀代の暴れ川であった手取川も、上流に手取川ダムや、多数の砂防堤等が整備され、今では下流域に到るまで全く洪水の心配はなくなったそうです。
 吉野に住むメリットがひとつ消えてしまったと言うことでしょうか(^^ゞ

2、《鍋懸の滝》
 むかし一向一揆の頃、鬼玄蕃(佐久間盛政)に攻められて、鳥越のお城もみんな取られてしもたがやけど、吉野だけは、どうにも攻められんと、がんばっとったがやと。
(攻めようにも攻められない天然の要塞のに立てこもっているために、やられることなくがんばっていたのだそうな。)
 何とかならんもんかと、いろいろためしてみたけんど、どしても川
(手取川)を渡ることができんで、弱っとったがやと。
 
(信長の軍も、どうにかならないものかと、あれこれ試してみたが、どうしても深い断崖絶壁の手取川を渡ることが出来なくて、たいそう困っていたそうだ)
 ほしたら
(そうしたら)ある時、(対岸の)釜清水のばーば(老婆)が鍋ん蓋(鍋の蓋を)あろとって(洗っていて)、まちごて(誤って)蓋を流してしもたげと。
 ほしたら、それ見取った玄蕃の家来が、
「あこ
(あそこ)に浅瀬がある。あこ(あそこ)から渡ろ」ちゅーて(と言って)、そこから渡ったんやといね。
 吉野んもんどまぁ
(吉野の人々は)、すっかり油断しとったもんやさけ(油断していたものだから)、あっというまにやられてしもたがやと。
 男も女も、んな
(皆)捕まって、殺されてしもたがやといね。
 そんから
(それから)、鍋流いたとこ(鍋を流したところを)を《鍋懸》っちゅうがになったがやと。(「鍋懸」という地名になったのだそうだ。)

加賀一向一揆最後の拠点
鳥越城跡

山内衆は、ここを拠点に信長軍と戦った
【解説】

 《一向一揆まつり》のおかげで、一向一揆といえば、すっかりとお隣の《鳥越村》といったような感がありますが、実は加賀一向一揆を最後まで戦ったのは、吉野谷村の方だったのです。
 1582年(天正10年)3月1日、手取川を越えた信長軍による大討伐戦によって、村の家々はすべて焼き討ちされ、数百人の住民が見つかり次第に殺伐されたといわれます。
 一揆勢力を指導した男は捕らえられ、生き残った女・子どもの前で「なわつき」と呼んで、広場に珠数つなぎにされ、首に荒縄を巻かれて、その端を兵が引くやり方で無残に絞め殺されたといいます。
 このため山之内北谷七箇村(吉野・佐良・瀬波・市原・木滑・中宮・尾添)は荒れ果てて、三年間無人の地となりました。



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