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その他の言い伝え
1、《吉野のお寺の話(その1)》
『私達の身近な地域とその歩み』(吉野谷中学校)所収
  むかし、白山へ登山するため馬でさむらいが通ってきても、吉野のお寺の前を通る時は、かならず馬からおりて通らないと行けなかったそうです。
 
(前田さん(加賀藩主)の位牌が安置されていたからでしょうか。)
2、《吉野のお寺の話(その2)》
『私達の身近な地域とその歩み』(吉野谷中学校)所収
 冬奧まいりさっしゃる(冬に《奧まいり》をなさる)時分になるとお寺のごんげんさん(住職)は、女原(尾口村女原)から向こうの在所(集落)では、吉野のごんげんさんが奧まいりにござっしゃると云うことで総人夫(村人総出で)で六尺(180p)近い道を作り、そしてカゴで送り迎いしたがやと。まるで殿様行列みたいなものやったがやと。

3、《お寺さん・願慶寺》
『加賀の吉野 わがふるさとの今昔』(吉田 政 著)所収
 子どもの頃、私は両親から、
「お寺さんは、毎年冬になると奧の方(吉野から見て、尾口、白峰方面のこと)へ行き、その土地の人の背中におんぶしてしてもらって、次のところへ移られるそうや」
と聞いたことがある。
4、《吉野さまの奧まわり》
『白山麓と一向一揆』(山内美義 著)所収
 毎年二月十八日になると、吉野さまちゅう御坊さまがござらっしゃるんじゃ。雪ん中を下太郎(下田原?)衆の村送りで、尾の江までくると「ヤーッホイ」とでかい声で合図したといや。
 そうすると村の皆が、新右衛門の端まで迎えに出たもんじゃそうな。そいで村まで着くと下太郎衆は、すぐ帰らっしゃったそうじゃ。
そいから約十日ほどの間に、家々の年忌を勤めたり、御堂で説教さっしゃって、つぎの村まで送って行ったもんじゃといの。
 年忌ちゅうても、二十七回忌までを言うんで、三十五回忌、五十回忌になると御法事ちゅうて、酒も出るし、踊りもでたもんぢゃ。
 そいから、年忌や御法事のときの、おときの「茶ノ子」に、大きな山の芋を高杯
(たかつき)の上に添えたもんで、それを皆まとめて、葦かなんかにそえて束にして、吉野の寺まで別に誰かが担いで行って届けたもんじゃと。
 二十五日になると、村人夫
(むらにんぶ)で雪ん中をかんじきをはいて道をつけ、村はずれの地藏さまをすぎてハツ坂へかかると、道が急なもんじゃさかい、御坊さまを杉葉で苞(つと)にして、両方に荷縄をつけて、上と下から引っ張って降ろしたそうぢゃ。御坊さまは恐ろしかったやろうのう。
 そいから深瀬に四・五日ござって、五味島へ行かっしゃたんじゃ。
 その頃はもう三月のかかりになっちょって、もうそこい行くと遅うて、年忌ものうて生臭たべさっしゃったそうな。
 一月の中頃に桑島へござらっしゃって、かれこれ二ヶ月かかって、この六村を回らっしゃって、五味島からまっすぐ吉野の寺へ帰らしゃったそうな。
 その吉野の寺は、願慶寺ちゅうお寺で、村の者は皆『吉野さま』って言うちょったんじゃ。なんせ古い寺ぢゃといの。
    鴇が谷の山野りゆ(昭和58年現在八六才)聞書


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